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愛妻家でけちな王様。 [l'histoires d’hommes]

有名なエピソードがあります。
英国王ジョージ2世が皇太子だったころ。

a..georgeII1.jpgジョージ2世。

妃のキャロライン・オブ・アーンズバーグと、日課であるお昼寝の最中に、首相ウォルポールが
恐縮しながら眠りを妨げてきました。

父のジョージ1世が亡くなったという知らせでした。
ドアを開けた皇太子は、不機嫌そうに言ったそうです。

a..george II.Robert Walpole.jpgウォルポール。

「うそつきめ。で、何の用事なのだ?!」

父王の死を知っても、涙ひとつ流さず。
事情を知らなければ、なんと冷たい息子!!と思うでしょう。
でも彼はきっと、ほんとうに悲しまなかったことでしょうね。なぜって、彼の産みの母を、この父は
はじめからひとかけらも愛していなかったし、愛そうともしなかったのですから。

彼女の不貞を理由に、彼女を死ぬまで幽閉し続けたのですから。
息子から母を引き離し、かといって息子に愛情を注いだわけでもなく、彼の幼心に強烈なトラウマを
植え付けただけの存在だったのですから。

a..georgeII2.jpg

彼の母は絶世の美女ソフィア・ドロテア。政略結婚でジョージ1世が英国王として即位する前に、ドイツに
幽閉されて忘れ去られました。
彼女のお話はこちら。→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-08-05-2

その当時まだ幼子だったジョージ2世は、妹とともに父方の祖母に引き取られました。
母と引き離されたショックでお勉強も手につかず。

a..georgeII3.jpg

それでも成長してからはジョン・チャーチルの軍で対フランス戦で活躍しました。
(ジョン・チャーチルは大出世を遂げてチャーチル家を名門にしましたよ。このひとは、
ウィンストン・チャーチルのご先祖様ですよ! → http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-09-26-5  )

父王は棚ボタ式に56歳で英国王になったため、英国に愛情はないし、英語も話せませんでした。
「君臨すれども統治せず」、ほとんどドイツにいて、政治はウォルポールまかせ。
国民に信頼が最も薄い王様でした。

ジョージ2世はそんな父が大嫌い。
愛人をあまた囲い、母を幽閉し、自分たち子どもには愛情を示さない。
そんな父は彼にとって反面教師です。

彼は父のような浮気者には決してならないと誓いました。

a..georgeII.caroline.jpg王妃です。

妃のキャロラインは、利発な美女でした。
ジョージよりもはるかに機転が利き、どうしたら国民の信頼を得ることができるのかを考えて、ジョージを
プロデュースしたのです。

ジョージは気難しくて短気、ちょっとしたことですぐに怒り出します。
かつらを(当時の男性のアクセサリー)脱いで床にたたきつけ、ひどい悪態をつくのです。
なるべく人前でそうしないように、彼女はうまく夫を操りました。

a..georgeII.caroline2.jpg

浮気をしないがモットーのジョージは愛妻家でした。
愛妻家だったのに、愛人を持つことになったのです。

なぜって?それは、当時のはやりだったから!!
やれやれ・・・と彼は適当に手近なところで見つけることにしました。

妃の侍女、メアリ・ベレンデンです。

a..george II.mary bellenden.jpg

でもさほど愛人に興味のないジョージです。しかもけち。メアリは身近にいたのでよ~くわかっています。
だから早々に愛人を「引退」して、貴族に嫁いでしまいました。

つぎに「お役目」に就いたのは、ヘンリエッタ・ハワード。

a..george II. Henrietta Howard.jpg

チャールズ・ハワードという貴族の妻であったのを、賠償金を払って離婚させて愛人にしたのです。

愛人を持つことが流行っていたから王様も愛人を持つことになった、というのは王様の事情。
王妃のほうはそれでも面白くないのは確かです。
彼女は身づくろいする間、ハワード夫人に水の入った洗面器をずっと持たせたままにする意地悪などします。
王様はかばうどころか、一緒になってひどい仕打ちをするのです。どうして?!

a..georgeII.caroline3.jpgキャロライン妃

愛人という名の下働き・・・(´∩`。)

ちなみに、フランスでは公式愛妾が認められていましたが、英国では愛人にはそんなおおやけの
高い地位は与えられませんでした。

屈折20年!!!!!
よくぞ耐えましたね、ハワード夫人。

王に「おばば」と煙たがられながら(自分が彼女と夫を離婚させたくせに!)、20年間、王と王妃の
お世話をして、わずかの年金と安価な宝飾品、ロンドン郊外のコテージを与えられて、引退したそうです。

いざ、偏屈の王のお世話をしてくれるひとがいなくなると、王妃はちょっと困ったそうです>_<

a..georgeII4.jpgジョージ2世一家

英国は首相ウォルポールのおかげで(そして王妃のおかげもあり)安泰で、「大英帝国」を確立しました。
父王も英語が話せないだめな王様でしたが、ジョージ2世がだめだめであっても、まぁ、ちょっとは
しかたがないのか? と同情もします。

小さなころに引き離された美しい母には、二度と会えなかったのですもの。

a..george II.5.jpg

ある日ぽっくり病死しましたが、それにしても・・・幼少期の衝撃的体験は、人格形成に影響がないとは
いいきれないものがありますね。


***************************************


ソネブロが、
重い・・・・重すぎますよ、超ヘヴィ級の重さです!!!

画面は動かず、2分くらい真っ白なまま、なかなか泣けてきますT_T

記事のUPも閲覧も、この嘘みたいな重さに阻まれています。
明日も仕事が早い時間なのに、この重さに邪魔されました(´∩`。)


伝説の王といえば・・・ [l'histoires d’hommes]

a.kingArthur2.jpg

昔むかーしのブリテン島。

ロンドンの大聖堂の前には岩に突き刺さった剣がひとふりありました。
この剣を岩から引き抜くことができた者がこの国の王になるという伝説がありました。
(・・・伝説の前の伝説ですね)

どんな大男も強力の者も、この剣を抜くことはできませんでした。

さて、ユーサー・ペンドラゴンという諸侯には、アーサーという息子がおりました。
彼はこの剣のうわさを聞きつけて、挑戦しに行くことにしたのです。

すると、どうしたことでしょう?
アーサーが剣をつかむと、特別に力を入れたわけでもないのにするりと抜けたのです!

a.kingArthur1.jpg

そう・・・アーサー王の物語です。
アーサー王はブリテン島の伝説の人物です。もしかして、実在した誰かといろいろと混ぜられてできた
ヒーロー像なのかもしれませんが。

とにかく、大昔の伝説が時代や文化を経ることによって、壮大な物語に変化してきた・・・という感じです。
原形は5~6世紀には存在していたようですが、それが中世の宗教観や騎士道精神を取り入れ、
脚色されていったのです。

a.Queen Gwenevere3.jpg王妃グィネヴィア。

アーサー王の時代はブリテン島は、周辺民族の侵入に悩まされていました。
西からウェールズ人、アイルランド人、ゲルマン人、北からはピクト人。

a.kingArthur3.jpg

戦死してしまった父の跡を継いだアーサーは、自分の居城であるキャメロット城に、「円卓の騎士」たちを
配置して、周辺国へ遠征に行かせて他民族を追い払いました。

a.arthur12.jpg

魔法使いのマーリンの助けを借り、湖の精霊から授かったエクス・ガリバーという聖剣を使い、
勝利を勝ち取っていきます。

a.kingarthurandtheknightsofroundtable.jpg

王妃グィネヴィアと騎士ランスロットの不倫話など、「関係あるの?」と思うような話もありますが( ´艸`)
(ランスロットの片思いだったとも、ただの淡い恋だったともいわれます)

a.Queen Gwenevere2.jpg

a.lancelot.jpgランスロット。円卓の騎士の一人。

ランスロットに惚れ込んで魔法の島から出てしまうシャーロットの姫君の話が個人的には好きですが、
ランスロット、モテモテですねw → http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-06-24-4

burnjones.BeguilingofMerlin.jpgこれはマーリン。

アーサー王が戦いで留守にしている間に、甥が反乱を起こします。
この戦いはアーサー王の勝利に終わりますが、重傷を負ったアーサーは傷をいやすために
聖地アヴァロンへ旅立っていった・・・・という感じで物語は終わります。

ArthurInAvalon.jpg

ただの物語としてだけではなく民俗学的な見地からすれば、それぞれが何かを象徴しているのかもですね。
ブリテンの歴史に詳しい方はご存知かもしれませんが・・・。ご存知ならば教えてください!

a.arthur13.jpg

アーサー王は実在したのか、それとも歴代の支配者たちのまとまったイメージなのか。
甥はどこの民族を象徴していて、勝利したのに聖地へ傷を治すために旅立ち(あるいは死んだとも)、
二度と戻ってこなかったというあたりが何を表しているのかが知りたいですね^^



カサノヴァ [l'histoires d’hommes]

casanova3.jpg

ジャコモ・カサノヴァは、旅回りの芸人だった父と女優の母との間にヴェネチアで生まれました。両親には5人の子がいましたが、子供たちには関心を全く示さなかったそうです。
それが彼の性癖に影響を与えたとしても何の不思議もなかったでしょう。

幼いころは運よく上等の教育が受けられたおかげで、16歳で法学博士となりました。
しかしその後は180度生き方が変わります。
なまじ容姿がよかったようで、金持ちの老人にうまく取り入って社交界の寵児となり、
派手な女性遍歴を繰り返します。このことから女たらしのことをカサノヴァと呼ぶようになりました。

さて、仕事も忘れて女遊びに夢中になり、旅回りのヴァイオリン弾きに身を落としても、
彼はめげませんw
錬金術師、外交官、作家、ペテン師・・あらゆる肩書きで、ヨーロッパの貴族をだましました。あるときは貴族の老人に取り入って、まんまと容姿になり、貴族の称号を手に入れました。

casanova1.jpg
でも、最大のパトロンであったデュルフェ侯爵夫人がなくなった後は、運が尽きたのでしょうか、転落の人生を送ったそうです。

ラスプーチン [l'histoires d’hommes]

ロシアの怪僧。
Rasputin.jpg

「私は殺されます。その暇乞いに参りました。私を殺す者が農民であれば、ロシアは安泰でしょう。もし、私を殺す者の中に陛下のご一族がおられれば、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げる事となりましょう。そしてロシアは長きにわたって多くの血が流されるでしょう」

という予言を、暗殺される前に残しました。

グレゴリー・ラスプーチンは普通の農家の生まれです。
20歳で結婚するのですが、ある日突然思い立って、「修行」の旅に出るのです。

あちこちで祈祷やまじないをして、果てには皇帝ニコライ2世の皇太子の血友病を治したことで、
皇后の信頼を得て宮廷に入り込みます。

nicofamily.jpgニコライ2世一家。

政治にまで口出しする彼を、貴族たちが良く思うはずがありません。
彼らはラスプーチンを暗殺しようと計画します。

1916年12月29日、ユスポフという貴族の屋敷にラスプーチンは招かれてワインチョコレートケーキを振舞われます。ラスプーチンは無類の甘いもの好きだったので、このケーキの中に青酸カリが仕込まれているとは知らずに喜んで食べました。

でもなんともないのです。

焦った貴族たちは、彼を銃殺します。
床に倒れた怪僧をみて彼らがホッとしたのもつかの間・・・・・

ラスプーチンは起き上がってみんなを追いかけたのです!

貴族たちは逃げながらも夢中で銃の引き金を引きました。
そして、ついには殴るけるの暴行を加え始めたのです。
ぐったりした彼の手足を、人々はロープで縛りあげました。
そして、凍ったネヴァ川の氷の割れ目に放り込んだのです。

・・・・翌朝、片手のロープを外したラスプーチンの死体が発見されました。
死因は溺死でした。

壮絶な最期です。

そして彼の予言通りに、皇帝一家も悲惨な最期を遂げました。



ルパンもかなわない、華麗な流れ星的一生の泥棒王子 [l'histoires d’hommes]

a.Georges Manolescu1.jpg

映画みたいというか、マンガみたいというか、今の時代には絶対にありえないような人生を送った男が
19世紀末のヨーロッパにいました。

ゲオルグ・マノレスコ(1871-1908)。

「泥棒王子」と呼ばれた華麗な大泥棒です。

ルーマニアに生まれましたが、幼くして母をなくします。
父は賭け事好きの酔っ払い軍人でした。

彼は幼いころから手先が器用で、訓練したらカードを自由に操れるようになり、小学生にしてイカサマを
始めたと言われますw

友達をカモに、その親たちの宝石を巻き上げては質屋に売り飛ばす。悪事がばれると逃げるように14歳で
軍隊に入りましたが、享楽的な性格が合わず、すぐに脱走します。

16歳ぐらいには立派な詐欺師に。
トルコでフランスの伯爵夫人のペットの犬を助けて、使用人として雇われ、上流階級のゴシップやマナー、
金持ち女の口説き方を伯爵夫人から学びました。

彼の幸運は、容姿に恵まれていたことでした。

その後はギリシア、フランスでホテルや舞踏会を荒らしまわって荒稼ぎして、湯水のごとく金を使いまくり、
はったりをかまし続けます。ギリシア王女まで彼の魅力のとりこになってしまうのです。

パリでも手先の器用さをいかして(笑)高級宝石店を荒らしまわります。
面が割れてくると「仕事場」を舞踏会や貴族の屋敷に鞍替えします。

美青年の彼は、舞踏会でご婦人たちに甘い言葉をかけます。ダンスに誘いうっとりさせている間に、
身に着けた宝石を見事な手さばきで盗み取るのです。
あとで気付いてもご婦人たちは訴えることができません。なぜって・・・彼女たちは既婚者なので、
まさか美貌の青年によろめいている間に宝石を盗まれたなど、夫の手前、言えないのです。

そんな彼もついに捕まり2年ほど服役しますが、変装して刑務所を脱走します。

大陸も荒らし過ぎて居心地が悪くなり、アメリカへわたってまたまたロードムービーさながらの華麗な
泥棒生活を送り、2年後に再びフランスへ戻ります。

またまたまたヨーロッパ中を荒稼ぎして、ある貴族に成りすましてドイツ貴族の若い女性と結婚して
子供までもうけました!その後、正体がばれてまた捕まりますが・・・気がふれたふりをして精神病院へ、
そしてまた脱走です。

故郷ルーマニアに戻って出版社の勧めで回想録を出し、英雄扱いされますがすぐに飽きてまた泥棒生活へ。
アメリカ、カナダと「出稼ぎ」の旅に出て、右手を怪我します。

a.Georges Manolescu2.jpg

40歳。
なんとなく大好きなフランスに戻り、右肩を切断。
それがもとで、ひっそりとアパートの一室で亡くなりました。
遺産? たった50リラだけでした!!!

カリギュラ [l'histoires d’hommes]

a.caligula2.jpg

大アグリッピナの息子で、小アグリッピナの兄です。
(母と妹が同じ名前って、ややこしいですね;;;)

この呼び名は本名ではなく、「小さな軍靴」という意味です。
まだ2,3歳のころから、彼は特別に小さく作られた軍服や甲冑を身に着けて、父の遠征について回って
いました。ミニチュア兵士のカリギュラは、兵士たちにとてもかわいがられていたと言います。


父の死後は、母とともに苦難の毎日を送りました。
軟禁されて成長しましたが、兄弟のうちで彼だけは皇帝である叔父にかわいがられたようです。
母と兄が獄死しても、彼は財務官の地位を与えられていたくらいです。

やがて叔父が死ぬと、彼は皇帝になるのです。

ローマ市民たちは、彼が皇帝になったことを心から祝福してくれました。
24歳の若き皇帝は、市民の期待に応えようと希望に満ちていました。

a.caligula3.jpg

ところが、即位後2年ほどで、彼は暴君に豹変するのです。
なにか病気にかかり、九死に一生を得たために人格が変わってしまったのだそうです。
もしかしたら、ウイルスで脳が損傷してしまったのかもしれません。

自分の忠実な臣下たちを理由もなく殺したり、血筋を自殺させたり、妻を追放したりします。
とにかく多くの人々に死をあたえるのです。

そして浪費も激しく、香水風呂に入ったり、舟遊びや夜毎の宴会のために、現代の価値で1000億円ほどを、
彼は1年で使い果たしてしまったと言います。

マリー・アントワネットも負ける浪費ぶりです。

お金を作るために、彼は自ら売春宿を作り、貴族たちを通わせて料金を徴収します。
皇帝が娼家の主人とは、驚きです。

a.caligula1.jpg

カリギュラは腹心の部下に暗殺されてしまいます。
彼が死んだという知らせを聞いたローマ市民たちは、すぐに喜ぶことができませんでした。
だって、カリギュラのことだから、自分が死んだという噂を流して、その反応を見てどうにかしようと思っている
のかもしれませんから。

それえでもようやく彼の死を確信した市民たちは、カリギュラの像を破壊したといいます。
29歳の暴君は死に、市民にようやく安楽が訪れたのでした。




カリギュラ インペリアル・エディション DVD-BOX(4枚組)

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  • 出版社/メーカー: ギャガ・コミュニケーションズ
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カリギュラ [DVD]

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エドワード8世の遺言 [l'histoires d’hommes]

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アメリカ人の離婚歴のある女性のために、王位を放棄した英国王、エドワード8世。

世間からどんな批判を受けようとも、どんなに説得されても、彼女をあきらめようとはしませんでした。
格別な美女でもない。
でもエドワードはウォリスを心から愛しました。

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1986年に夫人が亡くなると、それより先に亡くなっていた彼の遺言状が公開されました。
なにせ、カルティエの宝飾品を結婚後も妻に贈り続けたのですから、すごいコレクションに違いありません。
世間は目もくらむような宝石の数々が一体どうなるのか、注目していたのです。

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しかし、遺言は世間の人々の期待を裏切りました。

「これらの宝石は、妻以外の女性の肌を永遠に飾ってはいけない。また、私の愛の生涯の思い出として、
金銭に変えることもならない」


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彼はもしかしたら、ウォリスを最後まで自分の伴侶として認めてくれなかった英国王室には、もはや何の
愛情も感じていなかったのかもしれません。だから自分の愛が間違っていなかったことを死んでも示したのかもしれないですね。

夫人のコレクションは、夫人の遺言によって、パスツール研究所に寄付されたそうです。

Cartier-Panthere-White-Gold-Emerlds-Diamonds-Ring.png

豪華な宝石には不吉ないわれが多いようですが、これは私が知るなかでも珍しい、愛に満ちたいわれです。

役の行者はすごい人。 [l'histoires d’hommes]

役の行者(えんのぎょうじゃ)は、634-701に実在した、修験道の祖といわれる人物です。

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何がすごいかといえば、まず、生まれた時に手に一輪の花を握っていたそうなw
母親が気味悪がってこの赤ちゃんを山の中に捨てると(それもどうかと・・・)、
動物たちや鳥たちが一生懸命に守ってくれて、無事だったのですって。
だからお母さんはあきらめて(それもどうかと・・・)連れて帰って育てることにしたそうで。

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小さなころから一人で山に行ってしまいます(笑)
15歳ころには、もう日課になっていたそうです。
誰に教わったわけではないのに梵字を書きます。

ね?ふつうの子ではないでしょう?

お母さんが出家を進めても、お坊さんになる気はなかったようでした。

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まあ、血筋からしても霊感が強いのはもっともなのですが。
三輪氏から派生した賀茂氏の分家で、苗字は「賀茂役君(かものえんのきみ)」。
神事をつかさどる家柄のしかも結構裕福な家系です。

きっと小さなころから、ほかの人には見えない「ものたち」が見えたのかもしれません。
あまりにも霊感が強いので、飛鳥寺(当時は元興寺といいました)のお坊様が、
山での怪異を避ける「孔雀の呪法」を授けてくれました。すんなりマスター
22歳で死んだインドの高僧から宝珠を授かって生きたまま仏のランクに。

道教も極めたために、空飛ぶ術もマスターです。
前鬼と後鬼、2匹の鬼たちを使役したそうです(鬼神の使役は道教です)。

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まあ、この「鬼たち」とは、朝廷に従わない山の民であったとも言われますが。
幼いころから山を知り尽くした彼なら、納得できちゃいますね。

葛木の山の神を怒らせて、謀反を働こうとしていると天皇に告げ口されて、伊豆に流刑になったことも。
でも昼はおとなしく刑に服し、夜は海を渡って富士山に毎日通って修業したとかw

誤解が解かれて伊豆から戻ることができますが、最後はお母さんを連れてこの世から旅だったそうで。

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役の行者によって、密教や道教、陰陽道などが修験道にリンクされていることは興味深いです。
後世の創作も大きいですが、まあ、日本の偉大なソーサラーの一人であったことは間違いないでしょうw

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雷神様のたたりじゃぁぁ~~>_< [l'histoires d’hommes]

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菅原道真(845~903)は、現在は学問の神様としてよく知られていますね。
受験生のいらっしゃるおうちでは、お守りなどあるのではないでしょうか。

小学5年生くらいの時に、ある和歌を習いました。

東風(こち)吹かば 匂ひ起こせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
(春風が吹いたら その香気を私に届けて遅れ、我が家の梅の花よ。私がいなくても、春になったらちゃんと
咲いて香っておくれよ)

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なんだろう、ちょっとさびしい歌だなと思いましたが、そのあと高校生になって意味を知りました。

道真は学者の家系の出身です。
もとは土師(はじ)氏、埴輪を作る渡来人の家系でしたが、ひいおじいちゃんの時に桓武天皇(これまたママが
渡来人です)から、菅原姓を許されたのです。

5歳で和歌、11歳で大人顔負けの漢詩を詠みました。神童は二十歳すぎればただの人なのですが、
かれは例外でしたよ。
18歳で文章生(もんじょうのしょう)=今でいう難関大学の超エリート学生
23歳で文章得業生(もんじょうとくぎょうのしょう)=難関大の修士課程
26歳で方略試及第=博士課程をトップで終えた

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時の天皇宇多天皇に認められ、
蔵人頭(くろうどのとう)=天皇直属の秘書長官
左京大夫(さきょうのだいふ)=左京区を治めるトップ
参議=トップクラスの政治家で発言力がある
中納言=その上のクラス
大納言=そのまた上のクラス
そしてなんと、右大臣にまで上り詰めました。

当時、藤原氏が政権を掌握しつつありましたので、藤原でないのに右大臣とは、かなりすごい出世でした。
本人の努力もすごいけれど、運もよかったのです、が、こんな順風満帆に出世すると、不特定多数から嫉妬されるのは世の常です。

そのなかでも彼を目の上のたんこぶ扱いして忌々しく思っていたのが藤原時平(871~909)。
藤原摂政家のおぼっちゃま。道真より26歳も年下なのにすでに左大臣。
道真が宇多天皇にかわいがられているのを嫌がっていました。
だから宇多天皇が退位して醍醐天皇が帝位につくと、年の近い若い天皇に取り入って、道真をふたりで疎み始めたのです。道真の娘が醍醐天皇の弟親王にお嫁入りしていることも利用して、陰謀をでっち上げました。

「右大臣はあなたを廃位させて、弟宮を天皇の位に据えるつもりなのです」と、醍醐帝に吹き込みます。
これによって道真は大宰府の帥(そち)に任官され、いわば左遷されたのです。

上の和歌は、左遷されるとき、都を離れる前に詠んだものだったわけです。
道真は無駄に2年間を九州ですごし、失意のうちに病死しました。

michizane.jpg

さて・・・

道真の死から5年後。
道真によって出世できたのに時平の陰謀に加担した、蔵人頭の藤原菅根がぽっくりと死にました。
翌年は時平が39歳の若さで衰弱死。
10年後、道真の後任の右大臣が狩りに出て泥沼で溺死、死体は発見されず。
923年には醍醐帝の皇太子が21歳で突然死、その皇子も2年後5歳で病死。

醍醐帝は亡き道真を右大臣に戻し、流罪も取り消しにしました。
でも不吉な死は続きます。

930年、清涼殿に落雷。大納言、右中弁、その他数名がこの落雷で死亡、負傷者も多数出ました。
道真の死後20年たっていましたが、その間、毎年の風水害と落雷、飢饉、旱魃(かんばつ)、疫病が
続いていたために、市井の人々まで道真のたたりと噂していました。

醍醐帝までもがたたりを信じ、譲位しましたが、その1週間後に病死しました。
時平の兄弟や子供たちも次々と亡くなりました。

右大臣が雷神となって京の都に戻り、復讐をしているのだ・・・・。

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時平の弟の息子で「ちゃっかり者」として有名だった師輔(もろすけ)は、一族がたたり殺されるのを
恐れる中、あることを思いつくのです。

そうだ、いっそ怨霊として恐れるのではなく、神様として祀ればええんちゃうか?

ということで、大昔から雷神信仰のあった北野に社を建てて、道真を勧進して神様にしたのです。
いまや北野天満宮は全国に25000社、受験生の味方ですw
北野天満宮は道真にちなんで梅園が有名ですね。

大学生になって京都で初めて住んだ場所の近所に、道真の屋敷跡である小さな神社がありました。
多少なりとも、縁があったのかな、なんて思いましたよw

ヴラド・ツェペッシュ公 [l'histoires d’hommes]

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15世紀のワラキアの領主ヴラド・ツェペシュ公は、ドラキュラのモデルとされている人物です。

父親の代からオスマントルコと戦っていて、一時期はオスマントルコに人質にされたこともありました。

当時のヨーロッパは十字軍を送り、イスラムとの戦いに明け暮れていました。
現ルーマニアにあたるワラキアも例外ではありませんでした。

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ツェペシュとは「串刺し」という意味です。これはオスマントルコと戦った際に、相手の兵士たちを生きたまま串刺しにして、丘に並べたためについた呼び名だそうです。

ドラキュラというのは、「ドラクリヤ=竜の息子」からきています。これは父が神聖ローマ帝国から「竜騎士団」に叙されていたためです。

a.Vlad Drăculea3.jpg

美女の生き血を吸うというフィクションは、このワラキア公の残虐性からきています。
かれは生きたままの人を串刺しに知ることを処刑法として好んだようです。
おしりから、棒をさします。
すると体の重みで徐々に棒が刺さっていくという、おそろしい処刑法です。
わざと苦しめたいときは、棒の先端をあまり鋭くせずに、棒の長さを長くするのだそうです。

人質生活が彼の精神状態をゆがめたのかもしれませんね。
あるいは人生のほとんどを戦争に明け暮れたために、感覚がマヒしてしまったのかもしれません。

いずれにせよ、異常な残虐性を持った人物には違いなかったのでしょうね。

a.Vlad Drăculea4.gif

彼は12年の幽閉生活をのちに送ります。
そして紆余曲折ののちにトルコ軍との戦いで戦死したそうです。

ルーマニアでは祖国のために戦った英雄としてたたえられています。

ちなみに・・・・

生まれ故郷には、ドラキュラのすべてがわかるという、アミューズメントパークがあるそうです( ´艸`)


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a.HesiodListening to the Inspiration of the Muse.Edmond Aman-Jean.small.jpg