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端麗王 [l'histoires d’hommes]

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フィリップ4世(1268‐1314)は、兄の死によって皇太子となり、17歳でフランス王となりました。
王の象徴である二頭のライオンを両側に従えたこの絵は有名です。  




彼は容姿が大変に美しかったことから「ル・ベル(端麗)王」と呼ばれたそうです。
その端麗な容姿とは裏腹に、剛性で厳格な性格であったようです。



フランスでは名君の一人として知られていますが、悪名もいくつかあります。

教皇ボニファティウス8世に暗殺団を送り込み、ローマ近郊の教皇の別荘にて暴行させ
86歳の教皇を憤死させて、自分の息のかかったフランス出身のクレメンス5世を後釜に据えました。



そして教皇庁をアヴィニョンにおいて、思い通りに操ろうとしました。
(これが歴史で習った「アヴィニョン捕囚」)







16歳の時に結婚した5歳年下の妻はナバラ王女でしたが、彼女は結婚後もナバラの統治者でありました。




ナバラを自分のものにすべく、妻を毒殺した・・・という噂もありました。
(しかし、彼女の死後、王は巡礼の旅に出ているのでこれは噂だけだったのかもしれません)




当時のフランスは国家規模の財政難に苦しんでいたのですが、経済の立て直しのために
彼が目を付けたのは、ユダヤ人とテンプル騎士団でした。




テンプル騎士団 →  こちら




ユダヤ人から全財産没収。
テンプル騎士団からも。




テンプル騎士団のリーダーだったモレーは、「自白」強要されて悪者にされました。



「神はわれらの死の復讐をなさる」

と、火刑になる直前に言ったそうです。





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そのあと間もなく、王はイノシシ狩りに出かけ、落馬します。
脳梗塞により、生まれた地へ運ばれて数日後、亡くなるのです。
クレメンス5世も同年に亡くなっています。

モレーの呪い・・・・?





お寝坊さんが早起きすると・・・ [l'histoires d’hommes]

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われ思う、ゆえにわれあり。


ルネ・デカルトは1596年に生まれた、フランスの数学者で哲学者です。

幼いころにこの子は成長する前に亡くなるでしょうと医者に言われたほどの虚弱な子でした。
母も体が弱く、彼を生んで間もなく亡くなってしまったようです。

当時は哲学とは神学の一部のように見られていました。
まあ、いろんな学問が神学のもとに存在していたために、神の存在の域を出なかったとでも
言えましょうか。

そんな時代にガリレイが地動説を唱えて異端視される中、彼はラテン語、ギリシア語、医学、
神学、法律などを学び、近代哲学の父と呼ばれるまでになりました。

「われ思う、ゆえにわれあり」は、高校生のころに初めてデカルトの本を読んで知りました。
人間はただそこに生きているだけでは意味がない、考えるからこそ、そこに自分と言う人間が
存在するのだという考えに、目からうろこが落ちました。

なぜ自分はここに存在するのか?

それは考えることによって証明される! というような・・・

こんなデカルトは病弱な子だったためか、小さなころから朝寝坊。
でも成績は優秀だったから先生たちも容認ですww

で、大人になっても朝寝坊。
スウェーデンの変人クリスティナ女王に招かれた時。

早起きの女王に合わせて早起きしなくてはいけなかったデカルト。
北欧ということもあったのかもしれませんが・・・

風邪をこじらせてしまい、スウェーデンに行ってたっだ4か月ほどで亡くなってしまったそうです>_<

早起きは直接原因ではないですが・・・




エドワード8世の遺言 [l'histoires d’hommes]

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アメリカ人の離婚歴のある女性のために、王位を放棄した英国王、エドワード8世。

世間からどんな批判を受けようとも、どんなに説得されても、彼女をあきらめようとはしませんでした。
格別な美女でもない。
でもエドワードはウォリスを心から愛しました。

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1986年に夫人が亡くなると、それより先に亡くなっていた彼の遺言状が公開されました。
なにせ、カルティエの宝飾品を結婚後も妻に贈り続けたのですから、すごいコレクションに違いありません。
世間は目もくらむような宝石の数々が一体どうなるのか、注目していたのです。

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しかし、遺言は世間の人々の期待を裏切りました。

「これらの宝石は、妻以外の女性の肌を永遠に飾ってはいけない。また、私の愛の生涯の思い出として、
金銭に変えることもならない」


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彼はもしかしたら、ウォリスを最後まで自分の伴侶として認めてくれなかった英国王室には、もはや何の
愛情も感じていなかったのかもしれません。だから自分の愛が間違っていなかったことを死んでも示したのかもしれないですね。

夫人のコレクションは、夫人の遺言によって、パスツール研究所に寄付されたそうです。

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豪華な宝石には不吉ないわれが多いようですが、これは私が知るなかでも珍しい、愛に満ちたいわれです。

それは彼女の罪ではございませぬ、陛下。 [l'histoires d’hommes]

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トスカナ大公国からマリー・ド・メディチが後妻として輿入れしてくるとき。
アンリ4世はアンリエット・ダントラーグという愛妾に振り回されていました。

王妃にしろと言う誓約書まで欠かされていましたが、マリー・ド・メディチが輿入れしてくることはもう
決められていたのです。

当時は写真なんてないので、お見合いは肖像画です。
アンリ4世はマリーをちょっと見てみたいと、結婚式よりも前にリヨンまでこっそり彼女を
観察しに行きました。

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アンリ4世


こっそりとカーテンの陰から彼女を見た王ははっきり言って、大きく失望しました。
一緒に垣間見に行った宰相シュリーとの会話が笑えます。

王: 「あの足を見たか?」
シ: 「あちらの女性はみなああ(太い)のでしょう」

王: 「あの尻を見たか?」
シ: 「あちらの女性は皆、ふくよかなのでしょう」

マリー・ド・メディチはお見合い肖像画ではほっそり、いくぶん若く描かれていました。
17歳という触れ込みでしたが、実は27歳。いまの27歳はまだまだですが、14,5歳で結婚する当時
では、おばあちゃんになってもおかしくない年齢でした☆

マリーは大柄でしかも結構な肥満体でした。
まあ、どうお世辞を言っても美女とはいえないおかたでした。

王: 「トスカナにだまされた!」
シ: 「ですが、それは彼女の罪ではございますまい!?」
王: 「罪ではないが、不幸ではある!!」


アンリ4世が物陰であまりにも声を荒げたために、その正体がその場の者たちにばれました。
でもさすが。

おろおろすることなく、王はカーテンの陰から姿を現し、きょとんとしているマリーの前に出てひざまずき、
恭しく言ったそうです。

「貴女に少しでも早くお会いしたくて、馬を飛ばしてまいったのです。ベッドの用意がありませんので、
貴女のをわかち与えてください」

まぁ、なんでもいいのですね・・・。

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マリー



だってお輿入れの持参金は60万エキュ。親戚のカトリーヌがお嫁入りしたときの6倍。
多少・・がまんしないと、ですね:::
王だってもういい中年だし。

それに・・・ニオイ大王だったし;;;;

アンリ4世は悪臭で有名でしたから、マリーのほうも大変だったでしょう☆

海賊キッドと宝島 [l'histoires d’hommes]

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1701年5月23日。
ある一人の男がイギリスで死刑になりました。

その男の名前はウィリアム・キッド。スコットランド生まれの海賊でした。
彼は船乗りの子だったとか司祭の子だったとか言われますが、出自と育ちはよくわかっていないそうです。

大人になると、私掠船の船長をしていたそうです。

私掠船とは、言ってみれば公認された海賊のようなものです。
無法者の海賊退治には公認の海賊が適任と言うわけですw

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カリブ海で働いていたころ、カリファドという部下の反逆で船長をやっていられなくなりました。
しかたなくアメリカにわたってそこで3人目の妻をめとります。
この妻は大金持ちの寡婦で、莫大な遺産を受け継いでいたため、彼は逆玉に乗ったのです。
しばらくは商人として順調に商売をしていましたが、やがて私掠船家業が恋しくなったのか、
また始めるのですw

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イギリスから命じられた仕事は海賊退治とフランス船を襲うこと。
でも彼の判断が正しくないせいで、部下たちとともにインド洋で遭難しかけます。
イギリス公認なのに飢えに耐えられずイギリスの船を襲い、そうなればもうあとは野となれ山となれ、
自分たちが退治される側になるのです。

そしてかつて彼に反逆したカリファドが船長になっている海賊船に出くわして、どうにかこうにか
ボストンへ逃げ帰りました。

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でももうすでに、アメリカでの彼は無法者の海賊で指名手配犯です。
ただちにとらえられてイギリスへ送検されました。

そして処刑されて、見せしめとしてテムズ川に何年も吊るされてさらしものにされたそうです。

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彼が処刑される前に命乞いしたとき、自分の隠し財産をすべて差し出すから命だけは助けてくれと
言ったというウワサがあります。

ウソかホントかは不明ですが・・・・

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なんと、この隠し財産が、鹿児島県トカラ列島の宝島という島にあるのではないかと言われるそうです。
1929年に古い机の中から発見された地図が、どうやらキッドの宝の地図ではないかと言われた
ためです。

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財宝は東シナ海にある!

日本人て、こういうハナシ、好きですねww
かなり無理があると思いますけどw

トカラ列島の宝島で、宝探し、してみます?
( ´艸`)

ラスプーチン [l'histoires d’hommes]

ロシアの怪僧。
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「私は殺されます。その暇乞いに参りました。私を殺す者が農民であれば、ロシアは安泰でしょう。もし、私を殺す者の中に陛下のご一族がおられれば、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げる事となりましょう。そしてロシアは長きにわたって多くの血が流されるでしょう」

という予言を、暗殺される前に残しました。

グレゴリー・ラスプーチンは普通の農家の生まれです。
20歳で結婚するのですが、ある日突然思い立って、「修行」の旅に出るのです。

あちこちで祈祷やまじないをして、果てには皇帝ニコライ2世の皇太子の血友病を治したことで、
皇后の信頼を得て宮廷に入り込みます。

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ニコライ2世一家。


政治にまで口出しする彼を、貴族たちが良く思うはずがありません。
彼らはラスプーチンを暗殺しようと計画します。

1916年12月29日、ユスポフという貴族の屋敷にラスプーチンは招かれてワインとチョコレートケーキを振舞われます。ラスプーチンは無類の甘いもの好きだったので、このケーキの中に青酸カリが仕込まれているとは知らずに喜んで食べました。

でもなんともないのです。

焦った貴族たちは、彼を銃殺します。
床に倒れた怪僧をみて彼らがホッとしたのもつかの間・・・・・

ラスプーチンは起き上がってみんなを追いかけたのです!

貴族たちは逃げながらも夢中で銃の引き金を引きました。
そして、ついには殴るけるの暴行を加え始めたのです。
ぐったりした彼の手足を、人々はロープで縛りあげました。
そして、凍ったネヴァ川の氷の割れ目に放り込んだのです。

・・・・翌朝、片手のロープを外したラスプーチンの死体が発見されました。
死因は溺死でした。

壮絶な最期です。

そして彼の予言通りに、皇帝一家も悲惨な最期を遂げました。



こんな破滅の愛 [l'histoires d’hommes]

モディリアーニはトスカナ生まれのユダヤ系イタリア人でした。

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比較的裕福な家庭に生まれましたが、生来病弱で、たくさんの病気を抱えていました。
学者も輩出している家系の母は、この病弱な末っ子の実を案じながらも、彼の中に芸術的な才能を
見出していました。すでに彼が幼いころ、日記に書いています。

「この子、癇癪持ちだけれど、もしかしたら芸術家になるかも・・・?」

彼は美術学校に通い、彫刻を学びます。
そして18歳で単身パリへ上京するのです。

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でもすぐに、彫刻家としては体力的に無理だと気付きます。
そして彼はスケッチブックを手にして、画家を目指すことにしたのです。

モンパルナスで多くの芸術家たちと貧困の中、生活します。
外国人の芸術家もたくさんいました。ピカソ、フジタ、シャガール、ゴッホ、キスリング。もちろん、ユトリロら
フランス人芸術家もいましたけれどね。

フジタ→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-06-10-5
ユトリロ→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-06-03
キキ→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-07-10-1

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母のおかげで、文学のベースも持ち合わせていた彼は、豊かな感性を発揮します。
アジア、アフリカの芸術に大きな影響を受け、首の長い、細面の画風を生み出しました。
当時は肉感的な女性が描かれるのが普通でしたが、彼の描く女性はアフリカの彫刻のように首が長く、
アジアの女性のようにほっそりとしています。

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一方では、肉感的な絵もたくさん描いています。
一生に一回だけ開いた個展では、肉感的な裸婦像のせいで警察が踏み込んできたようです。
彼の裸婦像は、現代の美意識で見ても魅惑的な色気がありますね。

でも私は、このほっそりした肖像画のほうが好きです。
彼はほとんど肖像画ばかり描きましたね。風景画はほんの数点。

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なんていうか・・・私は彼について勉強したわけではないので、ただの憶測なのですが、
彼は貧乏であることを憎んだり嫌がったりしていたようには思えないのです。

破滅の中に美を見出していたというか、貧しくて、アブサンとハシシにおぼれる日々の中で、17歳から
彼を苦しめる結核に胸を苦しめられながら、そんな状況下にいることをある意味良しとしていたのでは・・・?と。

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いよいよ生活費が底をつくと、彼は街へ出てカフェで勝手に肖像画を描いては5フランで売りつけたと言います。
当時の売りつけられた人(の子孫も)は、その時は迷惑だと思っても、いまならなんと幸運なことでしょうね。
有名になったからということで価値がどうこう言うのは嫌ですが、たった5フランで描いてもらえるなら、ラッキー
だということも、事実といえば事実ですよね。

165cmと小柄ながら、チャーミングなイタリア男だった彼はモテモテだったようです。
病弱で、ヤク中でアル中の色男とくれば、放っておけない女性も多かったのでしょう(笑)ね。

a.Amedeo Clemente Modigliani2.jpgジャンヌ。

そんな彼の運命の女性は、ロシア人の彫刻家によって紹介されました。
32歳の彼の前に現れた、19歳の画学生ジャンヌ。

彼女はフジタのモデルをつとめていました。
彼らはたちまちのうちに恋に落ちます。そして1年もたたないうちに一緒に暮らし始め、内縁関係に。
ジャンヌは彼のモデルにもなりました。

a.Amedeo Clemente Modigliani1.jpgこれもジャンヌ。

1年後には、娘も生まれます。

生活は変わらずに苦しくて、フリークアウトしたモディリアーニが日銭稼ぎにスケッチブックを持ち、肖像画の
押し売りに出かけると、それをジャンヌが探し回る日々・・・。

でも、二人は不幸ではなかったのです。
お互いの肖像画を描きあったりして、愛し合っていたようです。

それでも病魔は着実に彼をむしばんでいきました。
1920年、娘が生まれて2年後に、彼は結核が引き起こした髄膜炎で、35歳の生涯を閉じました。
エコール・ド・パリの仲間たちが、葬儀を出してくれました。

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のこされたジャンヌは・・・・

2日後に、建物の5階から身を投げて彼のあとを追ったのでした。
お腹には2番目の子がいました。

きっとジャンヌも激しい気性の女性だったのでしょう。
残された娘はイタリアのおばに引き取られ、幼いうちは両親のことをなにもきかされずに育ったそうです。
彼女は長じて芸術の研究科になり、のちに知らされた父のことも研究したそうです。

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モディリアーニとジャンヌは、いまはペール・ラシェーズに一緒に眠っています。
たぶん、ひっそりと。



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お目めちゃん [l'histoires d’hommes]

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アンジュ―公アンリはのちにポーランド王を経てフランス王アンリ3世となる人です。
1551年にアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチとの間に生まれました。

母のカテリーヌはイタリアの大富豪メディチ家の娘で、最高の教養を身につけていながらも
王族ではないし、それほど美しくなかったことに強いコンプレックスを持っていたのかもしれないです。
夫には子供のころの初恋の人で18も年上の愛妾がいて、これがまた絶世の美女だったのです。

この愛妾ディアヌが自分の保身のために取り計らったおかげで、カトリーヌは愛されないながらも10人の
子供たちを生んだと言います。

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カトリーヌ・ド・メディチ


ひとから無条件に愛される美しさやかわいらしさ、それがカトリーヌに欠けた資質でした。
もともと、美貌の家系ではないメディチ家ですが、もしも彼女にも時々一族にも現れる美貌が備わっていたら、
フランスの歴史も別のものになっていたかもしれないですね。

子供たちのなかでも彼女はとりわけ、このアンジュ―公を愛しました。
それはこの子がとてもかわいらしい子だったからです。

あまりのその愛らしさに、侍女たちが喜んで幼い彼に女装させたりメイクしたりして遊んだほどです。
これがまたよく似合って美少女のようでしたから、頻繁にそうして遊んでいたのでしょうね。
自然にアンリは女装趣味を身につけました。

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かといって、なよっちぃわけではなかったようです。
長じてはイケメンで背も高く、武芸にも才能をあらわしたと言われます。

あまりの母の偏愛ぶりに、兄のシャルルがヤキモチを焼くほどでした。
母はアンリを「お目めちゃん」とよんで溺愛したそうです。

アンリはキレイな男の子たちを家来として侍らせていました。
そして女装趣味。
母は心配して、自らが組織した「自分の言うことを聞かない王侯貴族を籠絡させるための美女集団」の
なかから、飛び切りの美女を選び出し、息子を誘惑させました。

でもそんな心配はご無用だったようです。
彼は女性も愛することができたのですww

妹マルゴの結婚式の時、コンデ公の妻マリーに恋してしまったのです。

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しかも、顔を見てひとめぼれとかではなくて、舞踏会であせばんだ彼女が脱いでおいたシャツの香りに
惚れ込んだと言いますw

それで根性で、その持ち主がだれなのか突き止めたのですってw
でも強引に押してモノにしたわけではなくて、今でいうメルトモみたいな関係に。
ちょっと嬉しいようなちょっとがっくりしたような、母はそんな気分だったかもしれませんw

そうこうしているうちにポーランドの王座が空席になりました。母はアンリにぜひ受けるようにと勧めます。
だから? アンリはポーランド王として即位するのです。

でも兄のシャルルが精神的におかしくなって、急死してしまうのです。
これには悪いうわさがありました。
溺愛するアンリをフランス王にしたいために、カトリーヌがかわいくないシャルルを毒殺したというものです。
いくらなんでも・・・と現代の常識では思いますが、果たして真実はわかりません。

それで、マリー会いたさもあって、アンリは行かないでくれと止めるポーランドの臣下たちの目を盗んで
こっそりとポーランドを去りました。

追っ手から逃げようと踏み込んだオーストリアで大歓迎を受けて足止めを食らいます。
なぜって?
彼はイケメンプリンスだったから!

ついでにヴェネチアからも招待されて、母の故郷イタリアにも関心があったアンリはそれを受けます。
そしてそこで当代一のコルテジアーナだったヴェロニカに骨抜きにされますw

まるで浦島太郎のように毎日の目や歌えやの宴が繰り返され、ここでアンリは堕落していきます。
そうしている間に、愛しのマリーが出産のときに亡くなったと聞くのです。
失意のアンリ。

愛する人をこの世から永遠に失った彼は、投げやりになります。
母の影響だと思うのですが、黒ミサなどのオカルトにはまります。

もう女は愛さない!とでも思ったのでしょうか。
彼は男色に傾いて行きます。

1575年、母の勧めで結婚しました。
ロレーヌ公の姫君、ルイーズです。

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アンリにしてみれば、結婚なんてどうでもよかったようです。
これを機に彼はフランス王アンリ3世となりました。

彼は1589年、うんちしながら(!!!!)謁見中に、カトリックの修道僧に刺殺されてしまったそうです。
なんだかなぁ・・・・な、イケメンの人生でした。
女装趣味も結局、やめなかったようです。

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預言者と王妃 [l'histoires d’hommes]

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ミシェル・ド・ノートルダムは16世紀に生きていたフランスの医師でした。
最初の結婚で妻子を失くし、失意のどん底で各地を放浪しながら医療活動をしていました。

二度目の結婚をしてからは腰を落ちつけていましたが、その頃に発表した詩集が預言書として
有名になり、いつしか医師としてよりは預言者として名を知られるようになったようです。

彼の名はラテン語読みでは、ノストラダムスと言います。

人の一生はこの世に生まれ落ちた時に既に決められているという考え方は、西洋にも東洋にもあります。
占星術とはいっても、〇月△日から☓月〇日生まれは何座とか、そういった類のものではありません。
生まれた時刻までを明らかにして、星座のアスペクトを読み解いてゆくのです。

ノストラダムスは放浪期にどこかでそれを深く学ぶ機会があったのかもしれません。
リヨンで発表された『予言集』に納められた多くの詩は、未来を予知していると評判になりました。

これに目をつけたのが、イタリアから輿入れしてきたフランス王妃カトリーヌ・ド・メディチでした。
彼女はトスカナからありとあらゆる叡智、つまり医師、占星術師、錬金術師、料理人らを引き連れて
やってきていました。

ルッジェーリ兄弟という占星術師たちも連れてきていて、彼らはすでにカトリーヌはフランス王妃となり、
子供を何人か産むという予言をしていました。

日食の日に生まれた彼女は、自然と迷信深くなっていたのかもしれません。
カトリーヌはノストラダムスを召し抱えます。

ノストラダムスによれば、カトリーヌの夫・アンリ2世は不慮の事故で亡くなる、そして彼女の3人の
息子はすべて王位につく、ということでした。

予言は当たります。
王は槍試合で目を突かれ、苦しみながら数日後に死亡したのです。

そして3人の王子たちもお互いを憎しみ合いながらもすべてが王位につくことになりました。

「1999年に恐怖の大王が空から降ってきて・・・」というのを、この世の終焉だと思った人たちは、
2000年を迎えてほっと胸をなでおろしたことでしょう。

こじつけと言えばそれまで。

読み間違えれば大外れの未来が待っています。

まあ、一般人は知らぬが仏、ですねww

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運命に翻弄された男 [l'histoires d’hommes]

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ときどき、ひとは自分には予測もつかない大きな運命を背負って生まれてきてしまうことがあります。
それは貴賤にはかかわらないようです。

ブルボン家の傍系であったシャルル3世も、壮大な不幸を背負って生まれたようでした。

傍系でありながら、ブルボンの正統な後継者である1歳年下のまたイトコと15歳で結婚することから
その不幸は始まったのかもしれません。

a.Charles III de Bourbon.suzanne.jpg
シュザンヌ。


妻のシュザンヌは、ほかに男児がいなかったためにブルボン女公となりました。
彼女の地位が、のちのシャルルに不幸をもたらすきっかけとなりました。

まず1514年。
シャルルが24歳の時のことでした。
のちのフランス王・フランソワ1世の結婚式で、ある女性からひとめぼれされました。

a.Charles III de Bourbon.louisedesavoie.jpgルイーズ。

それは・・・当のフランソワ1世の母后・ルイーズ・ド・サヴォワでした。
彼よりも14歳年上のルイーズは、妻シュザンヌの従姉にあたる女性でした。

もしかして、この時から彼女はシャルルを取り立てようと画策し始めたのかもしれません。
翌年にはマリニャーノの戦いで活躍したシャルルは、フランソワ1世によってフランス元帥に任命されています。
マザコンのフランソワ1世を、ルイーズが陰で操っていたのかもしれないです。

a.Charles III de Bourbon.Francois I.jpgフランソワ1世。

そんなことはつゆ知らず。1517年、シャルルの妻のシュザンヌは、男児を出産。
でもこの子は夭折してしまいました。
夫婦仲はよかったのでしょうね。恐ろしい横恋慕には、二人とも気づかなかったことでしょう。
翌年にはまた身ごもりますが、妻は双子を死産してしまいました。

a.Charles III de Bourbon.anne et suzanne.jpg

そしてシュザンヌは徐々に体が弱くなり、双子死産の3年後に亡くなってしまいました。

ここから、彼の運命は大きく傾き始めます。

母后ルイーズは、ブルボン家の正統な後継者であることを主張して、亡きシュザンヌの莫大な遺産を
自分が相続することを訴え出ました。

a.Charles III de Bourbon2.jpgフランス元帥のシャルル。

もしもシャルルが所領を差し出すことを拒否するのならば、強制的に取り上げるというのです。
でも、もし、もしも、彼が自分(=シュザンヌ亡き今、血縁の正統のブルボン家の人間)と結婚するならば、
そんなことは要求しない・・・・と。

あら。まあ・・・・・・

シャルルは降ってわいたわけのわからない要求に、眉をひそめたことでしょうね。
なにせ、一方的にフランス王の母親にひとめぼれされただけなのですから。

もちろん、彼の答えは・・・Non!!!!

a.Charles III de Bourbon3.jpg法廷で争いましたが・・・

振られた母后ルイーズは息子のフランソワ1世を巧みに操って、結局シャルルの所領を取り上げてしまいます。
フランスに絶望した彼は、当時フランスと敵対していた神聖ローマ帝国のカール5世のもとへ行き、フランスを
敵に回すことを決めました。

カール5世の軍の指揮官となった彼は、フランス軍とたたかいます。
1525年の戦いでは、フランス軍の指揮官であったフランソワ1世を捕虜にしました。

彼の中には、祖国への愛とフランソワ母子、とくに母后のルイーズへの深い憎しみが渦巻いていたことでしょう。
いくら軍功をあげても、カール5世から受けた勲章を身に着けることはなかったそうです。

一方、ルイーズはシャルルを手に入れるために浅はかな行動に出たことで、神聖ローマ帝国軍との戦いで
フランスに大打撃を与えたということで、愚かな母后と呼ばれました。

Louisea.Charles III de Bourbon.deSavoie2.jpg

シャルルはついに故郷に戻ることはなく、ローマでの戦いの最中に、火縄銃で撃たれて死んでしまいました。
37歳・・・。死して彼は「反逆者」として、全財産を没収されました。

でもひとつ・・・・

不可解なことが。

彼は戦場でもふところに、ひとつの指輪を潜ませて持ち歩いていました。
それはなんと、フランソワ1世の母后、自分を祖国への反逆者にしたルイーズからもらったものだったのです。

憎しみは、どこかで不可思議な愛に変化していたのでしょうか?
それとも、彼女個人ではなく、祖国フランスの象徴として、手放せなかったのでしょうか?

あるいは、それを自分がまだ持っていることで、ルイーズに恥をかかせ続けられるというような気持ちから
でしょうか?

なぞです・・・・。

a.Charles III de Bourbon.Louise de Savoie.jpgルイーズ

彼女のほうはきっと、祖国を敵に回してまで自分を拒んだシャルルを心底憎んだことでしょう。
ひとめぼれはいつしかゆがんだ愛として、憎しみを伴う執着に変わっていたのかもしれません。

彼の全財産を没収させ、使者を送り彼の死を確かめさせたそうです。
あるいは、かつて自分が求婚して与えた指輪を、なんとしても取り返そうとした女の意地のプライド
なのか・・・・。


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