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天使か魔女か。”声”に導かれた聖少女・ジャンヌ・ダルク [l'histoires de femmes]

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ジャンヌはロレーヌ地方のドンレミ村の娘です。
農民の娘と言われますが、3人の兄と1人の妹を持つ、比較的裕福な家の娘だったそうです。
すなわち、ある程度の教養も知性もありました。



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ただ、想像の域を出ることができないのは、彼女に関する記録が抹殺されてしまっているからです。
フランス国内での認識もかなり低かったようです。



彼女をはじめて評価した有名な人物は、ナポレオンだと言われています。
それまではほとんど知られていなかったのですって。



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この少女を、ある日突然神がかりになってフランスをイングランドとの戦いから勝利に導き、王に見捨てられて
火刑に処せられたかわいそうな気違いと見るか、信念のために若い命を国に捧げた聖少女と見るか。



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当時のフランスは、イングランドと領土争いが続いていました。
シャルル6世に嫁いだものの、彼が発狂して暴力を振るい始めたために悪女となって、シャルルの弟や
いとこを誘惑して私利私欲の鬼と化したイザボー・ド・バヴィエールについては、以前に書きました。




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イザボー。





彼女は腹を痛めて生んだ実の息子シャルル王太子を、自分の権力保持のために夫シャルル6世の息子
ではなく、不義の子だと公言したのです。



だから王太子は自分のアイデンティティに長年悩んでいたようです。
そりゃあ、そうですよね・・・・実の母親にそんなこと言われたら;;;;



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シャルル王太子。



イザボーは夫のいとこオルレアン公と結託してイングランドと連合したブルゴーニュ派についていました。



娘カトリーヌ(シャルル王太子の姉)はイングランド王ヘンリー5世の妻でヘンリー6世を産んでいます。
(シャルル王太子の姉・カトリーヌ・ド・ヴァロワについてはこちら。お暇な方はどうぞ~~)
      ↓             ↓            ↓
     http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-06-28-6




いっぽうシャルル王太子は、父王亡き後、王位をイングランドから奪還すべく、アルマニャック派として闘っていました。しかし情勢はかなり不利でした。


その頃のことです。17歳のジャンヌは、神の啓示を聴きました。



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大天使ミカエルの囁き・・・。





フランスを救いなさい。





そこで彼女は守備隊長に会いにゆき、王太子シャルルに謁見を申し出ます。



シャルルは彼女を試したと言います。
身代わりを玉座に座らせて、自分は臣下の中に紛れます。
もしも彼女が本物の聖少女ならば、王太子が誰なのかわかるはずだと思ったからです。




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ジャンヌは迷わず、臣下たちに紛れ込んだ王太子の前にひざまずいたそうです。

王太子とジャンヌは二人きりで話をしたと言います。
誰にも聞こえないし、誰にも知ることのできないある秘密を、ジャンヌは囁いたと言います。
それから、彼女は正式に軍を与えられたのです。



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そして彼女は4000の軍を率いてイギリス軍を破りました。
白い馬にまたがり軍の先頭に立って戦場を駆け巡る少女を見て、形勢不利なフランス軍は戦意を高めたと言います。





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その後、仲間の男たちの嫉妬で軍は勢力をそいでしまいます。
そして彼女は、国内の反対勢力にとらわれて、イギリスに送還され、異端審問にかけられるのです。
イングランドはただ彼女を殺すのではなく、徹底的に見せしめにしてから殺そうと考えました。
だから70数名の裁判官を用いて、半年近くも彼女を魔女裁判にかけたのです。



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この時代のヨーロッパは、なにかあるにつけ魔女裁判を行いました。
不思議なもの、説明のつかないものはすべて魔女のせいにして、不特定多数の人々を犠牲にするということを繰り返していました。



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魔女の処刑法は火あぶりと決まっています。
彼女はたった19歳で火刑に処されました。
王太子は彼女のおかげで即位できたのに、彼女への身代金の支払い要求を無視しました。





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リュック・ベッソンの描くジャンヌは、もとスーパーモデルのミラ・ジョヴォヴィッチをジャンヌにして、迫力あるものに仕上げてあります。戦闘殺戮シーンに「もういいよ~」と感じることもあるんですが(笑)ほんとうに、迫力があります。





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私なら何かの主義のために19歳で死を選ぶなんて絶対にいやですけど(正直言って)。

一説によると、彼女は前王シャルル6世の愛妾の一人が生んだ私生児で、シャルル王太子の異母妹であったとも言われます。





そうなると彼女はシャルル6世の血を引く正当な王位継承者・・・。
もし、シャルル王太子のほうが母であるイザボーの浮気の子だとすれば、ジャンヌのほうが真の王位継承者なのです。




あるいは、ジャンヌも王妃イザボーの浮気の子で、死んだことにして密かにドンレミのダルク夫妻に預けられたのではないかとも言われます。そうすると彼女は王太子の妹と言うことになります。



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どちらであってもどちらでなくても、、シャルルが彼女を見捨てたのは嫉妬のためだったかもしれません。味方を鼓舞して勝利に導いたのが、王位を継ぐべく自分ではなく、ちっぽけな少女ですから。



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あるいは、彼女が本当に父王の妾腹の子ならば、その統率力やカリスマ性に、自分の王位を心配したのかも・・・。



彼を自信のない男にいてしまったのは、悪女である母親です。
ふつう、「お前はお父さんの子じゃないから、王位継承権なんかないのよ!」なんていいませんよね^^;;;




・・・どっちにしろ、男の嫉妬も怖いものです。





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ただ、幸せでいたかっただけ。~フランスのおしゃれ番長の最期~ [l'histoires de femmes]

ma6.jpgこんなにも優雅で美しかったのに・・・






exe5.jpg幽閉生活ですっかり面変わりしてしまったアントワネット。



14日にアントワネットを断頭台に送るきっかけとなったネックレス事件のことについて書きましたが、今回はその後日譚です。



1789年に市民が武器庫であるバスティーユ牢獄を襲って、革命が勃発しました。
怒りに燃えた民衆は、ルイ16世一家をパリのテュイルリ宮に身柄を移させました。



そして2年後、国王一家はオーストリアへの脱出を図ります。
手助けしたのはアントワネットの愛人、フェルゼン伯でした。
しかし一家はあと一歩というところで正体がばれてしまい、パリに送還されます。



exe00.jpg幽閉中のアントワネット。




一家はタンプル塔に幽閉されました。
でも、この幽閉生活は一家団欒の平和なものだったようです。
バスタブや豪奢な家具、多くの使用人を持ち込んでいたと言います。
ここから、恋人のフェルゼンに、手紙と金の指輪を送っています。




exe.louisXVI1.jpgルイ16世の処刑。




しかし、革命裁判が始まると、ルイ16世は先に死刑に処せられました。
アントワネットの息子ルイ17世も、革命派に連れ去られてしまいました。



アントワネットは裁判で事実に反する多くの罪状について自ら反論します。
でも、いくら反論しても無駄なのです。
だって革命派たちは、革命のための犠牲として、国王夫妻を民衆の憎しみの対象に仕立て上げていたからです。



exe1.jpg法廷で証言するアントワネット




結局1793年10月15日に、アントワネットに対して死刑判決が下りました。



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ルイ16世に遅れること10か月後のことでした。




exe6.jpg処刑の日の朝。泣いているのは娘です。




翌日、拘束されていたコンシェルジュリの独房で髪を短く切られ、粗末なナイトキャップと粗末な服を着せられて、彼女は馬車ではなく、荷馬車でコンコルド広場のギロチン台まで運ばれました。死に装束は全身白です。



exe8.jpg幽閉先のコンシェルジュリから引き出されるアントワネット。





あまりのショックで一晩のうちに髪がまっしろになった、とはよく言われることですが、
酷いストレスを受けると、短期間で白髪になってしまうことは、本当にあるようです。



exe01.jpg実際の幽閉されていた部屋。コンシェルジュリ。リアルな蝋人形が置かれています。





彼女は動揺する様子もなく、泣きもわめきもしませんでした。
義妹にあてて書いた遺書は、革命派のロベス・ピエールによって長い間隠されていたと言われます。
(でも捨てられなくてよかったです)




exe11.jpg連行中。





荷馬車に載せられた彼女に、憎悪を向けて罵声を浴びせる民衆。
彼女はどんな悪態を投げかけられても、まるでなにも聞こえていないかのように無表情でした。




exe13.jpg”The Affair of the Neckless"でアントワネットを演じているジョエリー・リチャードソンが、処刑台に連行されるシーン






断頭台はステージのように高座になっています。
もと王妃が階段を一歩ずつ上がると、群衆の興奮が高まり、歓声が次第に大きくなりました。



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王妃だったころはファッションリーダーとして、つねに注目の的だったアントワネット。
美しかった面影はどこにも見られないほどにやつれ、容色は色あせた花のように衰えてしまいました。






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有名なエピソードは、階段を上がる途中に死刑執行人の足を踏んでしまったアントワネットが、
「あら、失礼。わざとではありませんのよ」と言ったということです。





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当時、死刑は一種の公開スペクタクルショーのようなものでした。
私たち現代人の常識からすればちょっと理解しがたいことですが、罪人が首を落とされる様を熱狂して見物するということは、古代ローマからよくあることでした。





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14歳でフランスに輿入れした時、彼女は別の熱狂で歓迎されました。
しかし今は、憎悪を一身に浴びているのです。




ところでギロチンというk処刑器具は、罪人の首を木の板にはめ込み、上から三角の大きな刃を落とし、一瞬にして罪人を苦しむことなく処刑するものです。


以前からあった拷問・処刑道具のひとつでしたが、パリ大学医学部のギヨタン博士が、罪人も苦しまずに死ぬ権利があると三部会で主張したために、革命の罪人処刑に導入されるようになったそうです。




・・・そう、このギヨタン博士の名前から、「ギロチン」と呼ばれるようになったのです。




キャップをはぎ取られ、乱暴に首枷に押し込まれたアントワネットは、ひとつの深いため息をついて
おとなしく従ったと言われます。




最期は・・・・どんな死に方であれ、気高く逝こうとしたのでしょうね。







実は、義妹への遺書の中に、



「私には友人たちがいました。彼らとの永遠の別れを思うと、彼らの苦しみを思うことが死にゆく私にはもっとも辛いことなのです。最後の時まで彼らのことを考えていたことを、せめて彼らが知ってくれますように」




と書いたと言います。

「彼ら」となっていますが・・・・これはフェルゼン伯のことをさしていたようです。
彼女が死の間際まで思っていたのは先に無くなった夫ではなく、彼のことだったようです。



三万人の兵が取り囲む処刑台。
それを取り囲む、あまたの民衆。



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ギロチンの刃は特別なもったいぶりもなくさっと落とされ、アントワネットの頭部は籠の中にごろんと落ちました。死刑執行人が、まだ血の滴る首の髪をつかみ、宙に掲げました。



一瞬、静まり返った群衆は、アントワネットの首を見てどっと歓声を上げました。



「共和国、万歳!!」



そうして人波は引いてゆき、興奮もどこへやら、広場は日常へ戻りました。




exe.jpg最後の肖像画。未完成のままでした。





「すべての敵が、私に加えた危害を許します」と遺書にあります。
37歳。




亡骸はごく一部が、革命が落ち着いた後にサン=ドニ大聖堂に安置されました。
(ぞんざいに扱われたため、一部でも発見されたのが奇跡的なことでした)



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その死にざまは、威厳に満ちた、立派なものでした。











✄ฺ--------- キ ---- リ ---- ト ---- リ ----------------


スコットランドのおしゃれ番長の最期はこちら。
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http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-06-27-7


アントワネットの姪で、ナポレオンに泣く泣く嫁いだマリー・ルイーゼはこちら
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http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-07-07

クレオパトラの妹 [l'histoires de femmes]

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歴史上名高いのはクレオパトラの中でもクレオパトラ7世。

弟プトレマイオス13世とエジプトを共同統治するも、
王位争いに敗れ、アレクサンドリアに追われてしまいました。

しかし彼女はカエサルという最強の味方を得ました。
ちょうどアレクサンドリアに来ていた彼と同盟を結んだのです。

飛ぶ鳥落とす勢いのローマの将軍はプトレマイオス13世に姉との共同統治に戻すように提案しました。
でも彼は拒否したので、戦争に発展したのです。



クレオパトラのお話は → こちら



じつは、クレオパトラ7世にはこの弟王のほかにも、ベレニケ4世という姉(父王との王位争いで処刑されました)とアルシノエ4世という妹がいました。
妹アルシノエは弟側につきました。



ナイルの戦いにおいて、プトレマイオスは戦死します。
包囲されたアルシノエはとらえられ、市中引き回しの上、トルコのエフェソスに幽閉されてしまいました。


のちにひそかにクレオパトラによって暗殺されたと言われますが、詳細は不明です。
近年、彼女の骨がエフェソスで発見されたそうですが、骨の年齢が14~18歳くらいだそうなので、そうすると彼女の実年齢的に(=さまざまな状況から予測される年齢から)10歳くらいのずれが生じるそうなので、まだ確定ではないようです。



異母姉妹ながら、女同士の嫉妬はたぶん憎しみにまで発展してたのかもしれないですね。
アルシノエがクレオパトラではなく弟側についたのは、姉の脅威を感じ取っていて、姉につけば自分は頂点に立てないことを、本能的に悟っていたからなのかもしれません。



クレオパトラにしても、翻弄できない存在である妹は脅威だったかも?


17世紀の建築家で画家だったピエトロ・ダ・コルトーナの描いた絵は、姉妹の互いへの憎悪が見えるような気がします。


クレオパトラを王位につけようとするカエサル。二人は勝利に酔いしれています。向かって右端に立ち、輝かしい表情の姉に恨めしげな視線を送るのがアルシノエ。


エジプトは、私のものになるはずだったのに・・・


アルシノエの敗因は、王位につくためならどんな手段も問わなかったクレオパトラほど、権力への執着が凄まじくなかったところにあったのかもしれないですね。


あなたには、無理なのよ。あたしだからできたことなの。


そう言いたげに、妹にわが勝利を見せつけているクレオパトラ。




骨肉の争い、姉の勝利の瞬間。







*******************************






なんか、ずいぶんとご無沙汰してしまっております~;;;;



忙しい2月もやっと終わりました^^
またぼちぼちお邪魔させていただきますね。



えと、



いつも自分の誕生日のころは旅に出かけるのがもうずいぶん前からの恒例行事だったのですが、今回は出かけないことにしました。

それで、ほんとにほんとに、5月末に8日間、パリに行くことにしました。
5月ならばジヴェルニーにも行けるし、いつも極寒にしかヨーロッパに行ったことがなかったので、初の!良い季節体験です!


直行便が取れたし、なんと、あこがれのベルエポックスタイルの古いホテルも予約が取れちゃったので!!

今回の旅のパートナーは、叔母です。

なんと叔母は海外初デビュー(笑)




彼女も私と同じ方向音痴なので、迷子は必須でしょうが、のんびりお散歩を楽しみにしています。


初海外がパリって・・・いいですね(笑)


私は4度目くらいかな?


それまでフランス語を頑張ろうと思っています。




週に1.2回のアップが続くとおもいます。
今日からぼちぼち、伺い始めますね~^^

私たちのよき王妃 [l'histoires de femmes]

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ルイ15世妃でルイ16世のおばあちゃんであるマリ=カトリーヌ・レグザンスカ。


1703年にポーランドに生まれ、ポーランド名はマリア・レシチニスカ。
彼女が1歳の時に父がポーランド王となりました。
スウェーデンのカール12世がお飾りに据えたポーランドの王座は、カール12世がロシアに敗戦すると実にあっけなく奪い取られました。

そのおかげで一家はアルザス地方で亡命生活。

一方、フランスでは1710年、ルイ15世が誕生しました。
しかし2歳で母と死別。太陽王ルイ14世のひ孫ですが、幼いころは臆病で内気で優柔不断だったと言われています。

それでも王位継承権を持つ男子がことごとく病気や事故で亡くなったので、わずか5歳でフランス王となったのです。

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11歳の時に3歳のいとこ・スペイン王女と婚約しますが、相手が幼すぎて婚約破棄。
そこで白羽の矢が立ったのがマリ・レグサンスカ。
15歳の王と22歳の王位を追われた王の姫君との結婚は多少国民に失望を与えましたが、進められました。

じつは彼女は花嫁候補のリストには入っていたものの、候補を絞るときには除外されたそうです。
でも出産適齢期であったこと、健康で性格が穏やかであったこと、貞淑であったことが優先されたようですね。

少年王は年上王妃に一目ぼれしたそうですが・・・

なんと少年王、結婚を機に? わずか15歳で女遊びデビューです。
次々と目につく女性を愛人にしていきます。

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のちに「鹿の苑」で有名なポンバドゥール夫人やデュバリ夫人のさることながら、ド・マイイ=ネールの4姉妹全員とか、貴族の娘も名もなき庶民の娘も、数えきれないほどの女性を、です。

もしかしたら彼には3ケタくらい私生児がいたかもしれません。

王妃はそんな間にも次々と妊娠し、12年間で10人の子を産み、期待されたとおり「お役目」を果たしました。
ドクターストップがかかって、子を産むのを終りにしたようです。
彼女は夫が寝室へ入ってくるのを拒むようになりました。


いやはや。

歴代の愛人たちの中には傲慢で王妃とは合わない人が多かったようですが、ポンパドゥール夫人は王妃を敬愛し、良好な関係を保ったそうです。夫人は頭が良く抜け目がないので、王妃とは仲良くしておくのが得策と思ったのかもしれませんね。

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父がお飾りのポーランド王であっけなく王位を失ったことから、最初フランス国民は彼女のことを卑しい生まれとさげすむこともありましたが、文化芸術振興を熱心に行い、慈善活動にも力を注いだ彼女に次第に好感を抱き、彼女が65歳で亡くなった時には、「私たちのよき王妃」とたたえられました。

野心を抱かず、20年間のんびりとヴェルサイユで暮らしたことが、政治的な問題に巻き込まれずに穏やかに暮らせた理由なのでしょうか。

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王妃といえば波乱万丈、悪女も多いようですが、彼女は「平凡な王妃」ともいわれたように、地味と言えば地味、平和といえば平和な一生を送りました。





****************************




ちなみに、自身も王になったり廃位させられたりと、奇異な人生を送った王妃のお父さん。
娘が王妃になってからはロレーヌ公となりました。

婿・フランス国王の心を娘につなぎとめるために、いろいろなお菓子を考案して宮廷に送り込んだと言われています。

あ~、あれ?というような有名なお菓子をいくつか世に送り出したようですよ。

M & A  イケメン海賊は実は・・・ [l'histoires de femmes]

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1720年10月、ジョナサン・バーネットという船長の私掠船がジャマイカ総督の命を受け、ある海賊船をジャマイカ沖で追い詰めました。
激しい攻撃に海賊たちは震え上がり、船倉に身を隠していました。

しかしたった二人だけ、勇猛果敢に鬼神のごとく戦い続けていました。
そのうちの一人が、味方の海賊たちが隠れる船倉にピストルを撃ち込んで、最後まで男らしく戦えと叫びました。

でもやはり、多勢に無勢。
たったふたりでは戦いきれず、ついには捕縛されてしまいました。

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最後まで戦い続けた二人の海賊。
中性的なイケメンたちです。
でも、捕まえてみると人々はびっくりしました。

二人のイケメン海賊は、じつはどちらも女だったのです。




1691年ごろ、イギリスでメアリ・リードは生まれました。
父親違いの兄が幼くして亡くなったため、彼女は兄の身代わりに男の子として育てられました。
これは母親が前夫の実家から養育費をせしめるためだったとか。

そのまま男の子の格好で育った彼女は、フランスに渡りある貴婦人の小姓になりましたが、刺激を求めてなんと海軍に入隊し、キャビンボーイになりました。それから陸軍に行って歩兵に。そこである将校に一目ぼれ、男の格好をしていても異性愛者でした。

自分が女だと告白して結婚にこぎつけ、二人で除隊して居酒屋を始めました。
でも夫がほどなく急死。店がつぶれて再び男装してオランダ軍に入隊。しかし除隊して新大陸へ。海賊船に襲われて自分も海賊になってしまい、最終的にその職業に落ち着きました。

そんじょそこらの男たちよりも強くて、弱虫は撃ち殺します。
ジャック・ラカムという海賊の船に雇われました。

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一方、アイルランドでは同じくらいのころ、裕福な弁護士と女中との私生児としてアン・ボニーが誕生しました。

のちに父は妻と別れ、アンと母を連れて新大陸へ。サウスキャロライナで農場主として成功しました。
アンは生まれつき気性が激しくてキレやすく、13歳の時に使用人をフォークで刺したことがありました。母が死ぬと代わりに家事をうけもちました。乱暴者でしたが、一応はお嬢様なので求婚者はたくさんいました。

でも彼女が選んだのはちんぴら。
ジェイムズ・ボニーという船乗りと駆け落ちしてしまいました。
彼女は夫とともに海賊になりました。

そしてすぐに、夫よりも魅力的な悪党に惚れて夫をぽいっ。

アンの新しい彼氏、それはジャック・ラカム。
海賊ながら更紗(キャリコ)のズボンをいつも履いていたので、「キャリコのジャク」と呼ばれていました。

アンは多分、気が多いのでしょう。
ラッカムの船でとあるイケメンに目をつけました。
そして「おれ、実は女なんだ」と告白して誘惑しようとしましたが、相手も「おれも実は女なんだよ」と答えました。
そう、アンが目をつけた美少年は、実はメアリだったのです。


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海賊船で、メアリとアンが女だと知るのはジャック・ラカムだけでした。




1720年、捉えられたメアリとアンとラカムたちは、ジャマイカのスパニッシュタウンにある海軍本部裁判所で死刑を宣告されました。

何か言うことは?と裁判官に言われ、「ニンシンしてるんだ」と答えた二人。
二人とも、です!

世間はびっくり仰天です。
海賊の中の海賊、超一流の荒くれ者が女性だったのです。
しかも、二人そろって妊婦だったのです!


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妊婦は死刑にはできないということで、処刑は延期されましたが、メアリは獄中で熱病のために亡くなりました。
彼女のおなかの子の父親は、捕虜の美少年だったと言われます。あっぱれです。

海賊船のルールでは、捕虜に乱暴してはいけない、のですけれど。
乱暴してはいなかったのかも、ですね(笑)

アンのおなかの子はもちろん、ラッカムの子でした。獄中で出産したそうですが、その後の消息は不明でした。

ラカムが処刑される前にもう一度だけアンに会いたいと言っているときくと、彼女は言ったそうです。
「捕まった時あいつが男らしく戦っていたら、犬死しなくて済んだんだよ」




実に男らしいですこと。


姫君の選んだ職業は・・・ [l'histoires de femmes]

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時は5世紀半ば。

ゴート族の王シーヴァルドには、それはそれは美しい姫君が一人おりました。
名前はアルヴィルダ姫。


あまりのわが娘愛しさに、王は誰にも彼女を渡したくなくて、お城に軟禁、
万が一、異性が近づいた時のためにクサリヘビをペットに与えておりました。


王は本当に強い、自分が認めた男を姫君の夫にしようと決めていたのです。


ある時、デーントの海賊アルブが、姫君に求婚してきました。
彼は強いばかりか容姿も非常に美しい若者でした。

王は彼の武勇伝を聴いていたし、その立派な姿にほれ込んだので姫君への求婚を受け入れました。


しかーし!!!


王妃は大反対。
大事な娘が海賊の妻となるなんて、ゆるせません!


当の本人は、世間知らずの若い娘ですから、美しく強そうな立派な若者であるアルブに
もちろん一目ぼれでした。

でも、お母様がゆるしてくれません。


それどころか、海賊に惚れるなんて、あなたは姫としての自覚がどうたらこうたら・・・と
ひどく叱られてしまいました。


さて、ここで姫君はどうしたでしょうか?
泣く泣く、彼を忘れる?
ますます内向的になる?


いえいえ・・・・


意外な行動に出ました。



なんと彼女は女としての幸せを得られないならと、ドレスを脱ぎ捨て、男装して、

しかも・・・・


海賊になったのでした!


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しかも、女だけの海賊団のかしらです。



そして近隣の海域を荒らしまわり、恐れられるようになったのです。



なんと素晴らしき転身。
しかも、ある海賊団に遭った時、その船のかしらが亡くなってしまったということで、
ぜひにと海賊たちから頼まれて、その海賊団も吸収合併してしまったのです。


ますます大きな海賊団のかしらとなって、彼女は海を荒らしまわりました。


一方、王と姫君本人には認められたものの、王妃の反対に遭って望み叶わなかったアルブは、
海賊となった姫君のうわさを聞いて、姫君を探していました。


そしてついに、フィンランドの湾内で彼女の船団に遭遇したのです。


相手がアルブとは気づかない姫君は戦闘を仕掛けます。
しかしそこは場数を踏んだ勇猛なアルブの船団にはかないません。

船に乗り込んできたアルブを見て、姫君は驚きました。


再会~。


そして二人は、結婚しました。
海賊になった姫君は海賊と結婚して、グリータという娘を産みました。


余談ですが、アルブの相棒は姫君の親友兼侍女と結婚したそうです。


なんか、宝塚で上演できそうなお話ですが、
このアルヴィルダ姫が、おそらくは記録に残る世界最古の女海賊だそうです。









No one understands... [l'histoires de femmes]

彼女は、数奇な運命のもとに生まれました。


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彼女の父も母も、数奇な運命の人だったのですが、彼女自身も同様で、
そしてそれゆえに、であるのか、数奇な人生の終焉を迎えました。


たった19年の人生。


大陸と日本のそれぞれ高貴な血を受け継いだ少女。
お母様の美しさを受け継いで、美しい女性に成長するはずだったことでしょう。


清朝最後の皇帝・溥儀の弟、愛新覚羅溥傑の娘、慧生さん。
「エコちゃん」と呼ばれていたそうです。
彼女の母の自伝を読んだことがあります。

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満州で生まれ、日本に移住し、父が戦犯としてとらわれた時は、周恩来に手紙を中国語で書き、
そのおかげで父との文通が認められたそうです。

将来は大陸に戻り、大陸の人と結婚させたいと望んだ母の意向で中国語を習っていたと言います。
幼いころからピアノを習い、またたいへんな読書家だったようです。

そんな彼女の人物像を総合すると、行動力ある、情熱的で大胆な勇気ある、そしてたいへん聡明な少女であったと思われます。


父がまだ戦犯管理所にとらわれている間、母の実家から学習院大学文学部国語国文学科似通うようになりました。

そして彼女は文字通り「運命のひと」である、大久保武道氏に出会いました。
それからまもなく、初冬の天城山中で、二人は冷たくなって発見されるのです。


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嵯峨家は大久保氏の過剰な執着心による無理心中だと主張し、同級生たちは合意の上の心中だと主張しました。


1957年12月1日。
一緒に死んで欲しいとピストルを出した大久保氏をなだめすかしたが、二人はこの日に消息を絶つ。

タクシーの運転手の証言で、天城山へ向かったことはわかっている。



12月7日。
天城山の八丁池の南側のくぼ地の百日紅の木のそばで、二人の遺体が発見される。

拳銃は4発発砲されていて、そのうちの1発は不発だったという。
状況から見て慧生が先に撃たれたことは明白だった。




彼らの若さ、彼女の出自の珍しさから、世間はこの事件を悲劇の心中としてもてはやしたようです。
映画やドラマにもなりました。


嵯峨家では大久保氏の過剰な愛情と独占欲による無理心中であったと主張しています。
実際、大久保氏は彼女がほかの男子学生と話しただけでも嫉妬心をむき出しにしたそうです。
彼女も彼の束縛に辟易していたとか、あまりのひどさに注意した人を階段から突き落とそうとしたとか、客観的に見ても彼は独占欲の強い、激しい性格の人だったみたいです。

同級生たちは合意の上の心中であったと主張しています。
二人をよく知る周囲が、二人の死についての文章をまとめ、それがベストセラーになったらしいです。



物の見方と言うのは、見る人の考え方や立場によって変わってきます。
「ただの事実」としてみなしてもよいことをまとめれば、

*彼女は12月の予定を綿密に立てており、年賀状を書いていたとか仕上がってくる新しいコートを楽しみに待っていたなど、普段と変わりなかった


*彼はやきもちやきで、悲観的な性格だった


*時々、彼女は彼の嫉妬心に辟易していた



そして寮に届けられた慧生の遺書(最後に書いたとみられる手紙)。
これはWikiから挿入させていただきます。

『なにも残さないつもりでしたが、先生(新星学寮の寮長)には気がすまないので筆をとりました。 大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。 それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。 また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です 』


ということで、結局、真相は謎のままです。

恋愛は見えるものを見えなくしたり、二人だけに見える世界を作り上げたりします。
彼の嫉妬心に嫌気がさしたとしても、もう付き合いたくないと言っても、それが本当に本心なのかと問われると、本心だろうと断言することは、第三者にはできないでしょう。

喧嘩ばかりしていても、「どうして付き合い続けるの?」と訊かれても、別れない人たちはたくさんいます。

結局、当人でなければ何もわからないですね。




一つ言える真実は、彼女が若くして命を落とした、ということだと思います。









流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

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  • 作者: 愛新覚羅 浩
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2012/06/23
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流転の王妃―愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡

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  • 作者: 福永 〓@49E0@生
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2011/10
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愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人 (中公文庫)

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  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
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流転の子 - 最後の皇女・愛新覚羅嫮生

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  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/08/25
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われ御身を愛す―愛親覚羅慧生・大久保武道遺簡集 (1961年)

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  • 出版社/メーカー: 鏡浦書房
  • 発売日: 1961
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Don't threaten me with love,baby. [l'histoires de femmes]




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1915年4月7日、フィラデルフィアで19歳の少女ミス・フェイガンが、未婚のまま女の子を産みました。
子供の父親は17歳の少年でした。

エリノラと名付けられた少女は、若い母親には育てきれなかったのでボルチモアに住む、
母親とは半分だけ血のつながったその姉、つまり伯母・・・、の姑に育てられました。

彼女は黒人。
母方の祖父は、アイルランド系の牧場主が黒人の奴隷の少女に産ませた混血でした。
そう、彼女のルーツはまだそんな時代にあったのです。

10代になると母親とともに暮らし始めますが、レストランで働き詰めのため学校に通えず、
11歳で放校処分になったそうです。


学校にも行かず、毎日毎日働き詰めの幼い少女。
11歳のクリスマスイブに、デートから帰った母親はエリノラが隣人にレイプされたと知ります。
母親の通報でこの隣人は逮捕されますが、わずか数か月で釈放されました。

エリノラはもっと稼ぎのいい仕事を求めた母親とともに、NYへ引っ越しました。
でもこの母子ができることと言えば、身を売ることくらい。

13歳で彼女は1回5ドルで身を売る娼婦になるのです。


彼女のことを認知しようとはしなかった若い父親は、ギタリストになりました。
彼女は幼いころに会った父にあこがれを抱いていたのかもしれません。
男の子のようだったエリノラを見て、父は「やあ、ビル」と男の子の名前で呼んでからかいました。

そんな父へのあこがれから彼女は、次第にステージへ興味を持ち始めたのです。

禁酒法時代。

もぐりの酒場、ナイトクラブがたくさんありました。
その中の一つで歌い始めたのです。

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15歳で歌手デビュー。
芸名は父が幼い自分をからかって呼んだ「ビル」から、「ビリー」としました。
それに父親の名字を足して、「ビリー・ホリデイ」です。

天才とは幼いころから英才教育を受けてほんの一握りの人がなれることもあるけれど、
天性の才能を持つ、稀有の存在の天才も存在するのです。
彼女はまさに後者でした。

時は大恐慌、黒人への差別も激しい時代。
男でもひどい差別を受けるのに、まして女で、まだ幼い少女。
世の中の風潮に乗らない、人種差別のないクラブで歌えたことは幸運でしたが。

Cafe Society。
彼女はそこの看板歌手として、ベニー・グッドマンやマイルス・デイヴィス、デューク・エリントン、ルイ・アームストロングなどのビッグネームたちと共演しました。

レスター・ヤングがつけたニックネームは、世界中で彼女の代名詞となります。
それが「Lady Day」。

彼女は次第に稼ぐようになり、母親に小さな食堂を持たせるまでになりました。
だれにもまねのできない声と表現力。
素直に歌うことなく、必ず自分流にアレンジを加える歌い方。

しかしNYではもてはやされても、ツアーに出れば南部ではひどい差別を受け、時には白人のバンドと共演させてもらえないこともありました。レストランに入ることもできないし、トイレも白人とは別です。

父親は南部でツアー中に肺炎にかかり、黒人だからという理由でどの病院でも診察を拒否され、手遅れで亡くなりました。

そのころは彼女はミュージシャンと結婚しますが、彼は売人でもあり、アヘンやコカインを彼女に与えました。
なぜって・・・
彼女をクスリでつなぎとめ、彼女の稼ぎを搾取するためです。





やがて別れますが、次に付き合った男も彼女に麻薬を与えます。ヘロインも覚えさせられたのです。
母親が亡くなるとうつ病になり、ドラッグに加えてアルコールにも溺れるようになります。


麻薬所持で逮捕され服役したことは一度や二度ではありませんでした。
出会う男たちは彼女に愛を与える代わりに薬を与えました。
LSDにも手をだして仕事がおろそかになってきた彼女は、NYじゅうのクラブから締め出されてしまいました。


「麻薬ができることといったら、人を殺すことだけよ。それもじわじわと、ゆっくり、ひどいやり方でね」
彼女自身の言葉です。

もう戻れないところまで来ているとわかっていたのでしょう。
でも・・・やめられなかったのです。

1948年の3月。
クラブを締め出された彼女は、コンサートとツアーで食いつないでいました。
その中でも最も素晴らしいステージは、カーネギーホールでした。


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これはポーラ・パットンがビリーを演じたショット。



クチナシの花を髪に飾り、アンコールまでも魂を込めて歌いきりました。
そして念願のヨーロッパツアーも果たしますが、そのころには彼女の肝臓はアルコールにむしばまれて悲鳴を上げ始めていました。


浴びるように連日飲み続けるアルコールで、肝硬変と腎不全を引き起こしました。
そして1959年7月17日、44歳の若さでこの世を去りました。

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「愛はまるで水道の蛇口ね。出てきたり、出なくなったり」


彼女は多分、心の安らぐ場所が欲しかったのでしょう。
でも、誰も彼女の望むものは与えてくれなかったのです。
彼女を、金づるとしか見なかったから、麻薬漬けにしたのです。


「愛であたしを脅さないで、あなた。ただ、雨の中を濡れながら歩きましょうよ」


彼女にとっては一人でいるよりもロクデナシといるほうがましだったのでしょうね。


「あたしは自分以外は誰も傷つけたことはないわ。あたしの都合であって、誰にも関係ないでしょうけどね」


そして彼女は、今でも稀有の存在であり続けているのです。


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LEFT ALONE



あたしの心を満たす愛はどこにあるの?

あたしが絶対に離れたくない人はどこにいるの?


男たちは初めにあたしを傷つけてそして見捨てるの

あたしはひとり、ひとりぼっちなのよ



家だと呼べるところはなく

落ち着くことのできる場所もない

街でも、都市でも、残念なことに

あたしは取り残される、一人ぼっちで


さがして見つけ出せと人は言うけれど

いままで、そうなったことなんてないの


たぶん運命は 愛する人があたしを通りすぎていくようにしている

あるいは、死ぬ前に出会うことができるのかしら?

準備はしておくけれど

それまではひとり、あたしは一人ぼっちよ




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ルクレツィア・ボルジア [l'histoires de femmes]

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本当はボルジャという発音のほうが本当の発音に近いそうですが。

ルクレツィアはローマ教皇アレクサンデロ6世の庶子として生まれました。
教皇は妻帯できないので、母は愛人、ということになるからです。

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彼女には3人の同母兄がいました。チェーザレとホアン、ホフレ。
そう・・・長兄はもう一人のボルジア家の有名人、チェーザレ・ボルジアです。
(長兄はホアンという説もありますが、不確定です)

兄妹たちの父はスペイン人で、強欲な権力者でした。
毒殺を得意としていて(!!)、枢機卿たちを秘伝の毒薬で(!!!!)次々と殺害して、
財産を奪っていったのです。こんな教皇もいたんですね・・・;;;

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アメリカのTVシリーズ”The Borgias"でルクレツィアを演じているホリディ・グレインジャー。


修道院で育てられたルクレツィアは、13歳でペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァと政略結婚
させられます。

しかし夫とは気が合わず、彼女は出戻ってしまうのです。
父のアレクサンデル6世は、この結婚が「白い結婚」だったと主張して離婚を宣言します。

「白い結婚」とは、形ばかりの夫婦であり、一度も寝室を共にしなかった結婚、ということです。

出戻ったルクレツィアは、田舎の修道院にこもってしまいますが、彼女はそこで初めての恋に
落ちるのです。

スペイン人従者のペドロ。この恋は、意外な終わり方を迎えます。

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兄のチェーザレが、口答えしたという理由にならない理由でペドロを殺してしまったのです。
ルクレツィアは、悲しんだでしょうか?
悲しんだと思いますが・・・兄を恨むことはなかったでしょう。なぜならば、兄妹はこの後も仲が良かった
からです。

18歳で死んだペドロの子供を密かに出産するとすぐ、彼女は2度目の結婚をさせられました。
ナポリの王子、アルフォンソです。

この結婚はうまくいったようです。アルフォンソはルクレツィアの可憐な美しさを愛したし、彼女もまた、
1歳年下の美青年であったこの2度目の夫を愛することができたようです。

やっと幸せが訪れたのに・・・この結婚はたった1年で終わりを迎えました。
夫は暗殺されそうになり瀕死の重傷を負い、あまりの苦しさに自殺してしまいました。
彼女は20歳で未亡人になったのです。

そして21歳で3度目の結婚。
フェラーラ公の息子アルフォンソ1世、奇しくも死んだ夫と同じ名前です。

翌年に妊娠、体調が悪くなったルクレツィアに、兄のチェーザレがなんと出産まで付き添いました。
戦争や策略で多忙であり、妻ともろくに会わないチェーザレが、数か月妹に付き添ったのです。
こんなことからも、二人の近親的特別な関係がうわさされるのです。

ルクレツィアは女児を死産します。

luc2.jpg父と兄たちとルクレツィア

23歳の時に、父が亡くなります。強欲な悪人の父らしい死に方でした。
ある枢機卿の財産を奪おうとして秘伝の毒を飲ませようとして、誤って自分が飲んでしまったのです。
このとき、兄のチェーザレも同様に服毒してしまい、父子は生死の境をさまよい、息子だけが
助かりました。

そしてボルジア家の崩壊が始まります。
父亡き後、九死に一生を得た毒で弱ったチェーザレは、敵に責められてスペインにのがれ、結局戦死
してしまいます。ルクレツィアが27歳の時です。

39歳で出産後まもなく、母子ともに死亡してしまいます。


波打つ金の髪、白い肌、永遠の少女のようにきゃしゃな体型

妖婦と天使、二つの顔を持つと言われたルクレツィア・ボルジア。

人は誰だって、よい面と悪い面を持っているし、彼女だって例外ではありません。
慈善活動に熱心で、貧しい人々に救いの手を差し伸べたり、芸術家たちを保護したり、平民たちに
思いやりを見せました。

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その一方で、あまりにも特殊な家系に生まれてしまったために、権力のために利用されて、愛する人たち
とも引き裂かれて、その寂しさを埋めるための浪費や乱交も繰り返しました。

薄幸の女性のように言われますが、それでも彼女は自分の運命に流されることなく、それなりに自分の
人生を生きた女性だと思います。


ネフェルティティ [l'histoires de femmes]

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なんて美人

彼女の名前はネフェルティティ。
「美が訪れし者」という意味ですって。すごい。
名は体を表すの典型です。

中学生の時に初めてこの胸像を本で見て驚きました。


イクイナートンの妃です。
イクイナートンはツタンカーメンの父王なので、この人はツタンカーメーンの血のつながらない母に当たります。

彼女の娘の一人はアンケセナーメン、ツタンカーメンの異母姉か妹であり、妻でもあります。
古代では血族結婚は普通だったんですね。これは遺伝の関係から危険です。
ツタンカーメンも近い血族婚の弊害を受けて、いろいろな合併症を持っていたといわれます。

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大体、30代半ばくらいでしょうか?
それでもなお、美女です。この中にもっと年を取っている像が入っているのがCTスキャンで発見されたらしいですが、それはもうちょっと年を取ってからの姿だったのでしょうか?

とにかく、この像は美しいです。
砂の中に埋もれていたそうなので、色彩が当時のまま残っていました。

こんな細く長い首になるにはどうしたらいいんだろうと、10代のころによく考えていました(笑)
バレリーナのように首を伸ばすポーズをとればいいかもしれないと、頑張って首を伸ばしたものです。

生きている人でなくて、胸像が理想の女性像だったなんて、変な子供でした(笑)

でもこのあごのライン、本当に美しいのです。

Nofretete1.jpg


クレオパトラやネフェルタリとともにエジプト三大美女と言われますが、
クレオパトラもネフェルタリもその美しさの信憑性を現代に伝えるものがないですね。

クレオパトラという女王は何人かいたのですが、
世に言うクレオパトラは7世ですが、ギリシア風の格好をしていました。
ネフェルタリも絵しかありません。

Nefertari.jpg


ネフェルティティのこの胸像はドイツ人が発見したために現在はドイツにあります。
でもエジプトの文化を守るザヒ博士は、エジプトに返還要請を出しています。

はやくエジプトに戻れますように。





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